昭和35年(1960)に池田内閣の下で策定された「所得倍増計画」(長期経済計画)で、翌年からの10年間に名目国民所得(国民総生産)を倍増させることを目標に掲げましたが、その後の日本経済は、予想を上回る成長を遂げることになりました。
昭和30年代に勃興した大型店(チェーンストア)は、企業としての体制を整えつつ拡大を続けていました。
そして、拡大成長期にある大型店と厳しい経営環境下にある地元商店街の軋轢が生まれ、大型店の進出による中小小売店の経営不振という傾向が顕著になりました。
一方、高度成長を経て消費市場自体が「売り手市場」から「買い手市場」へと変化し始めていました。
大阪万国博覧会に対応した新御堂筋の整備と地下鉄御堂筋線の北進、地下鉄堺筋線の開通と阪急線との相互乗り入れは、北区に新たな南北軸を加えるものでした。また、阪急を基軸とした開発が進みます。
田中角栄内閣の列島改造計画によって、インフラ整備(主に新幹線)の候補地が買占め・買い上げられ地価高騰が始まり、ニクソン・ショックによって始まった大幅円高、第一次オイルショックによる物価高騰加わり、狂乱物価を出現させました。日本列島改造ブームはやがて社会問題化し、その後、総需要抑制策による経済安定化に舵が切られてブームは沈静化しました。狂乱物価の収束、日本の経済成長の下方屈折、省エネの急速対応などで景気は低迷を余儀なくされることになりました。
昭和60年代以降は、企業がこぞって国内から賃金や物価の安い外国へと一部の製品の生産拠点が移るなど経済活動のグローバル化が進展し、人や物、資金、情報の国境を越えた流れが飛躍的に増えました。
また、地球環境問題が顕在化してきました。
都心部での人口減少、ドーナツ化現象など区政環境の変化に対応するため、平成元年に合区が実施され、それまでの26区から24区制となりました。ちなみに旧北区は明治12年(1879)に発足しています。