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当町は明治初頭、西成郡北野村の一部であったが、明治30年4月1日に大阪市に編入され北区北野の一部となった。同33年4月1日に北野の一部が北野大深町となった。大正13年6月1日に北野大深町に北野松本町の全域を編入し大深町となった。昭和19年4月1 日 北梅田町・佐藤町の全域と牛丸町・中津南通一丁目の各一部が大深町に編入された。
昭和53年2月1日の住居表示の実施日ともない、大深町は新しい大深町・梅田三丁目・新しい角田町・芝田一~二丁目の各一部となった。
町名は、北野村当時の小字名大フケに由来する。このフケというのは深田の略で、当町の東側の町名小深町に対するものであった。梅田(埋田)のなかでも特に泥土の深い田が宇大フケ一帯にひろがっていたと考えられる。
当町は明治初頭、西成郡北野村の一部であったが、明治30年4月1日に大阪市に編入され、北区北野の一部となった。同33年4月1日に北野の一部が北野芝田町となった。
大正13年6月1日に北野茶屋町・南浜町の一部を編入し、北野の冠称を除いて芝田町となった。
昭和19年4月1日に中津南通一丁目の一部が芝田町に編入された。
昭和53年2月1日の住居表示の実施にともない、芝田町は芝田一~二丁目・新しい茶屋町・新しい大深町の各一部となった。
町名は、北野村当時の小字名である芝田に由来する。
当町は明治初頭、西成郡の北野村・本庄村の各一部であったが、明治22年4月1日の町村制の施行にともない、本庄村は西成郡豊崎村大字本庄となった。
同30年4月1日に両村ともに大阪市に編入されて北区の北野・豊崎大字本庄となった。
明治33年4月1日に北野の一部が北野茶屋町と北野西之町の各一部となり、豊崎大字本庄の一部が本庄東権現町の一部となった。
大正13年6月1日に北野茶屋町・北野西之町・本庄東権現町の各一部をもって茶屋町となった。
昭和53年2月1日の住居表示の実施にともない、茶屋町は新しい茶屋町・新しい角田町の各一部となった。
町名は、北野村当時の当町域に付けられていた小字名に由来する。
当町は明治初頭、西成郡の北野村・本庄村の各一部であったが、明治22年4月1日の町村制の施行にともない、本庄村は西成郡豊崎村大字本庄となった。
同30年4月1日にともに大阪市に編入され、北区の北野・豊崎大字本庄となった。同33年4月1日に北野の一部が北野茶屋町となり、豊崎大字本庄の一部が本庄西権現町となった。
大正13年6月1日に北野茶屋町・本庄西権現町の各一部をもって鶴野町となった。
昭和53年2月1日の住居表示の実施にともない、鶴野町は新しい鶴野町・新しい茶屋町・新しい角田町・中崎西二~三丁目の各一部となった。
町名は、昔の中国街道沿いに所在した鶴之茶屋の故事に由来する。
当町は明治初頭、西成郡北野村の一部であったが、明治30年4月1日に大阪市に編入され、北区北野の一部となった。
同33年4月1日に北野牛丸町となり、大正13年6月1日に牛丸町となった。
昭和19年4月1日に牛丸町の一部が大深町に編入された。
昭和53年2月1日の住居表示の実施にともない、牛丸町は新しい大深町・芝田二丁目の各一部となった。
町名は、北野村当時の小字名に由来する。
当町は明治初頭、西成郡北野村の一部であったか、明治30年4月1日に大阪市に編入され、北区北野の一部となった。同33年4月1日に北野の一部が北野小深町・北野西之町・北野茶屋町となった。大正13年6月1日に北野小深町・北野西之町・北野茶屋町の 各一部をもって小深町となった。
昭和53年2月1日の住居表示の実施にともない、小深町は芝田一丁目・新しい角田町・新しい茶屋町の各一部となった。
町名は、北野村当時の小字名小フケに由来する。
このフケ は深田の略で、当町の西側の字大フケに対するものであった。
当町は明治初頭、西成郡南浜村の一部であったが、明治22年4月1日の町村制の施行にともない、豊崎村大字南浜の一部となり、同44年12月20日に豊崎村南浜の一部に、同45年1月1日から豊崎町南浜の一部となった。
大正14年4月1日に大阪市に編入され、東淀川区南浜町の一部となった。
昭和2年4月1日に南浜町の一部が豊崎西通一丁目となった。
同18年4月1日の行政区画の変更にともない、豊崎西通一丁目のうち市道豊崎鷺洲線(阪神電鉄北大阪線併用道路)南側以南が北区に編入されて豊崎西通一丁目となった。
同19年1月1日に豊崎西通一丁目が東和町となった。
昭和53年2月1日の住居表示の実施にともない、東和町は芝田一丁目・新しい茶屋町の各一部になった。
町名は、東洋平和の祈りを込めてつけられたものである。
当町は明治初頭、西成郡の本庄村・南浜村の各一部であったが、明治22年4月1日の町村制の施行にともない、豊崎村の大字本庄・大字南浜の各一部となり、同30年4月1日に大阪市に編入されて、北区の豊崎大字本庄・豊崎大字南浜となった。
同33年4月1日に豊崎大字本庄の一部が本庄西権現町となり、豊崎大字南浜が南浜町となった。大正13年6月1日に南浜町・本庄西権現町の各一部が浜崎町となった。
昭和53年2月1日の住居表示の実施にともない、浜崎町は新しい鶴野町・新しい茶屋町・中崎西三~四丁目の各一部となった。
町名は、市域に編入された際の旧村名豊崎と、大字名の南浜から一字ずつをとり、合成させたことに由来する。
当町は明治初頭、西成郡南浜村の一部であったが、明治22年4月1日の町村制の施行にともない、豊崎村大字南浜の一部となり、同44年12月20日に豊崎村南浜の一部に、同45年1月1日に豊崎町南浜の一部となった。
大正14年4月1日に大阪市に編入され、東淀川区南浜町の一部となった。
昭和2年4月1日に南浜町の一部が豊崎東通一丁目となった。
同18年3月31日の行政区画の変更にともない、豊崎東通一丁目のうち市道豊崎鷺洲線(阪神電鉄北大阪線併用道路)南側以南が北区に編入されて豊崎東通一丁目となった。
同19年1月1日に豊崎東通一丁目が豊宮町となった。
昭和53年2月1日の住居表示の実施にともない、豊宮町は新しい鶴野町・新しい茶屋町・中崎西四丁目の各一部となった。
町名は、長柄豊碕宮の所在を当地に比定する説に因んで付けられたもので、豊碕宮の「豊」と「宮」を合成して用いた。しかし、現在ではこの地に 長柄豊碕宮 が所在した根拠は極めて薄く、法円坂(中央区)難波宮跡説が有力である。