芝田二丁目は、昭和53年(1978)の現行住居表示の実施によって改称したまちで、東は芝田一丁目、西は大深町、南は梅田三丁目、北は中津に囲まれた地域です。明治30年(1897)4月1日、北区に編入された西成郡北野村字小フケが、明治33年(1900)4月1日に北野小深町と改正され、さらに大正13年(1924)6月1日の町名改正で北野の冠称を廃して小深町となりました。その後、芝田二丁目となって、現在に至っています。小深町の名の由来は、「深田」(泥土の深い田)を略した「小フケ」からといわれ、ちなみに大深町の町名も同様です。
かつて周辺は文教地区として知られ、明治35年(1902)には大阪府第一番中学校が堂島から移転し、大阪府立北野中学校と改称され、昭和6年(1931)4月に現在地(東淀川区十三)に新築移転するまで芝田二丁目にありました。
昭和23年 (1948) 4月に大阪府立北野高等学校と改称していますが、画家の佐伯祐三氏や元大阪府知事の黒田了一氏、俳優の森繁久弥氏、漫画家の手塚治虫氏などの多くの著名人を輩出した名門校として知られています。
こうした変遷のある芝田二丁目は、現在も文化・福祉施設が各所に点在し、JR西日本本社ビルなどの主要オフィスビルや場外馬券場のウィンズ梅田など、幅広い業種が集積する地域となっています。
済生会は、明治44年(1911)2月の紀元節に際して、明治天皇の「済生勅語」(恵まれない人々のための救療事業)を受けて創立されました。施薬救療の資金として150万円を下賜され、同年5月に篤志家からの募金も加えて財団法人済生会が誕生しました。
済生会中津病院は、大正5年(1916)に全国の済生会79病院の中で3番目の病院として設立されています。昭和10年(1935)に、府立北野中学校の跡地が利用されて移転しました。設立当初はわずか75床の病院として設立され、移転や改築、増床や新たな施設の開設などの変化がありました。2016年には100周年を迎えましたが、地域の中核病院として、都市型総合病院として地域に貢献しています。
芝田二丁目には、浄土真宗本願寺派の末寺(本尊は阿弥陀如来)である西善寺があります。寛永11年(1634)4月の建立された寺で、明治42年(1909)7月の北の大火によって、天満南森町より移転してきています。以来、葬儀や法事のみならず、幼稚園運営をするなど住民のために町域の要としての役割を担ってきました。戦後、オフィスビルが立ち並ぶようになり、住民が減少したこともあって幼稚園は閉鎖されましたが、風格と歴史のある建物が地域の財産として見直され、訪れる人も増えています。
日本旅客鉄道株式会社(JR西日本))は、北陸・近畿(三重県の一部含む)・中国地方、信越地方の一部および福岡県の一部に路線網を有し、本社ビルが芝田二丁目にあります。昭和62年(1987)4月1日に設立されて以来、旧大阪鉄道管理局(大鉄局)庁舎を本社屋としていましたが、平成元年(1989)11月6日に起工式、平成3年(1991)6月12日に上棟式がそれぞれ執り行われ、翌年の3月30日に移転してきました。地上13階、地下2階建てで、屋上には旧大鉄局庁舎の屋上から移転された鉄道神社があります。
昭和49年、上田安子服飾学院の北校として芝田二丁目にやって来た上田安子服飾専門学校は、昭和51年に学園本部を同地に移し、これまで数多くのファッションクリエイターを生み出してきた。昭和16年(1941)に洋裁学校・上田安子服飾研究所として設立されたが、戦争激化のため一時閉鎖。昭和20年(1946)に再開し、幾度か名称を変えて現在に至っている。
また上田学園は、昭和40年(1965)に、デザイン教育の専門校として、大阪総合デザイン専門学校の前身、綜合デザイナー学院を設立。同校も昭和55年4月に専門学校に昇格し現在に至っている。専門学校のある街、芝田二丁目はファッショナプルな若い学生達が行き交い、活気に溢れている。
日本中央競馬会(JRA)は、日本中央競馬会法(昭和29年7月1日法律第205号)に基づく特殊法人で、昭和23年(1948)に場外勝馬投票券発売所(WINS)を東京の銀座に設置しています。以後、全国各地に展開し、その一つのウインズ梅田が芝田二丁目にあります。
B館6階には関西地区初のエクセルフロア(有料指定席287席)、A館地下・B館1階には「競馬情報発信スペース」Gate J.(大阪・梅田)などの施設が備えられ、交通至便で、食事やショッピングなどのついでにも気軽に立ち寄れると、好評です。